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頭のよさとは? [知性につて]

そもそも頭のよさとは何だろう? 知性とはなんだろうか? 結局そんな事も分からない。
勉強ができないよりできる方が頭がいいと思うだろうが、それだけで知性を説明することは難しい。だったらなんなんだろう?仮に「正しい思考」自体が知性と
いうのだったら、そもそも正しい事とは何か?と言うことになる。そうなると「正しい事」についての理解が必要になるだろうが、一口に「正しい事」といっても
容易に説明できることではないはずだ。そんなことわかるだろうか?ましてや説明なんかできるだろうか?それは簡単にはできない。なにより、そんな絶対の法則も掟も
ないだろう。完全に正しいことを証明した本とかそんなものがあるだろうか?ないはずだ。 「正しいこと」をりかいするだけでもかなり難しい事なのだ。
真理と言った方がいいだろうか。理解するのも見つけることも困難なのだ。

また簡単な一つの例だと、「単に知識が多いだけが頭がいいという事ではない」と言うことも一つの真理だろう。前も言ったが、「一つの行為に対して動機は複数ある」というのも
これも一つの真理かもしれない。このように沢山の物事に気付く事も正しい事を理解しているという事なのだ。そして、そういった事に気付くためには沢山の事を考えないといけない。
そしてたくさん考えるということは、それだけ思考範囲を広げるという事でもあるのだ。思考範囲の広さも頭のよさとか知性の一つだろう。 まあ確かに、知識量とか機転回転も知性なのだが、
それだけを知性とは言えないという事なのだ。そこが分かってない人間が多い。目に見える結果しか信用できない人間がおおいのだ。まあ最も注意すれば目に見えないということはないのだが。
ここでまた一つ考えることが増えた。「目に見える事と見えない事」基本性格とか人格とかは目に見えないかもしれないが、そうでもない。それに思考能力にしても目に見えないと言う訳でもない。

少し話を戻すが、記憶力とか情報処理(機転回転)等をなぜ人間は重視するか? やはりそれは目に見える結果を出せるからだと思う。記憶力が高いとテストの点もいいだろうし、
頭の回転が速いと、計算も早いだろう。 確かによく目に留まるし、誰が見ても頭がいいとおもうだろう。そのためだ。
可視的に分かるからだ。 測定ができるからだ。 しかし人格とか性格も測定ができない訳ではない。不可能ではないが難しい。その結果、目に見えなくなるのだ。
すぐれた能力があったとしても。 だから理解されにくいのだ。測定が出来ないものについては。人格も性格も測定しにくいし、抽象的なのだ。「この人は性格がいい」とか「この人は性格が悪い」
とかそういった言い方はするが、しかしその「良い悪い」とはどういったことなのか?また、それが本当の事なのか?誰が見てもそうなのか?となると分からない。人によって差が出てくるのだ。

タグ:知性
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思考について 定義について [定義について]

思考について 定義について

今までの説明からわかるだろうが、思考とは意外に空っぽなのだ。中身がないのだ。先入観がほとんどで中身がスカスカなのだ。
正しいことも悪いことも、無理な事も可能な事も勝手に判断してしまうのだ。そしてそんな空っぽの思考を持ってる人間は意味がない人生を送ってしまうのだ。
人間は真理をなかなか理解できない。人間が真理を理解するには莫大な時間がかかる。生きてる意味すら理解できてない人間がほとんどなのだ。

前回少し定義がどうとかそんなことを少しだけ話したが、そのことについて話していきたいと思う。
定義なのだが、基本人間は勝手に先入観でいろんなことを決めてしまう。定義までも。善悪についても、可能不可能についても、勝敗についても。
いろんな定義を勝手に決めてしまうのだ。


ここですこし例を出して分かりやすく説明してみよう。
このダメな言葉「~仕方がない」とか「そうするしかない」とかそんな言葉なのだが、これはまさにあきらめる人間の使う言葉なのだ。
この言葉本来使ってはいけないのだ。使うとしても自信をもって使う言葉ではない。そして、諦める人間が正しい人間なはずがないのだ。
仕方がない、というのは「無理だ」と言う意味なのだ。 無理な事を自信を持っていう事自体が間違っているのだ。どう考えてもおかしいはずだ。
無理な事できもしない事を自信を持って言うだろうか?その行為自体が正しいと言えるだろうか? いえるはずがないのだ。正しいはずがない。
無理な事を、出来ないことを自信をもっていう事自体がおかしいのだ。間違っているのだ。しかしその間違った行為を間違った人間はよくする。自信をもって「無理だ」と
よく言うのだ。それも自信をもって。 それ自体が間違いなのだが。

無理な事、できないことをなんか自信を持って言える事ではないのだ。不可能なことを。可能な事やできる事なら自信を持っていうべきだろうが、不可能な事なんか
自信を持っていうべきではない。間違った人間はこのように思考自体が間違っているのだ。 また、自信を持って言うということは、それが正しい事と思っているのだ。
間違っていると思っていることを、自信を持っていうだろうか?普通は言わない。

無理な事が、不可能な事が正しい事と思っているのだ。同時に諦める事でもあるが、そんなことが正しいと思ってしまってるのだ。
間違った人間の思考は不可能と定義をすることを正しいと思う場合があるのだ。それも実際それほど無理でもない事でも無理と定義してしまうのだ。
しかも無理と思う事が正しいと思っているのだ。 実際無理と決めつける事なのだが、成績を上げる事とか、やりたい仕事をする事とか、
そんな簡単な事でも無理とか不可能とか判断している場合がおおいのだ。 たしかに、「明日死んで明後日生き返る」とかそれはむりだろう。確実に不可能なこともある。
しかし、仕事とか成績とかそれぐらいの事なら生きてる人間なら不可能ではないはずなのだ。無理かどうかはわからないはずだ。それを勝手に判断してしまうのだ。
そういった人間の思考は間違っている。思考が間違うということは人生自体が間違っているのだ。思考が人生を作り上げるから。

そして、「あきらめることが正しい」これは完全な間違いである。完全に間違った解釈である。一つの事が無理だったとした場合、何か他の方法を考えるのであれば
それは理に適っている。しかし一つの事が無理だったとして、他の方法を何も考えないのは間違っている。完全に諦めてしまっている。
例えば、ハードルの高い資格とか大学に行ったり取得したりしようと思った場合、どう考えても現状の自分の成績で無理だった場合、「もう完全に無理だ」と決めつけて
一生諦めてしまう事か、「現状は無理でも1年か2年先なら可能」と判断して今は諦めても再挑戦する事ではどう考えても後者の方が正しいだろう。
これが、可能不可能の判断の思考である。また、この思考は長期計画でもある。この長期的に物事に取り組むこともあきらめない人間の思考には多いのだ。
諦める人間は長期計画が全然できないのだ。また、この例の場合、どのように学力をつけるか?その方法を考える事ができるか?と言ったことも諦めない思考の一つでもある。

諦めない人間は、いろんな選択肢を考える事が出来るのだ。
勉強が出来なかったとしたらその場合、

記憶の方法に問題があるのか?
自分の解釈に問題があるのか?
あるいは教本が自分にあってないのか?
記憶の方法に問題がったとしたらどんな方法なら記憶できるか?
記憶の方法を全力で調べる。
解釈に問題があったとしたらどこに問題がるのか?
いったいどの辺りが間違っているのか?

この様にいろんな選択肢や手段を考えることが出来るのだ。しかしできない人間は、
「勉強が出来ないのは難しいからだ」
この一つだけしか考えないのだ。

長期計画や思考範囲の広さなどを含めて諦める人間は短期計画しかできない上に思考範囲が狭いのだ。その為本来可能な事でも不可能と判断してしまうことが多いのだ。
その判断が正しいかどうかも分からずに勝手に判断をするのだ。思考範囲が狭いとこの様な事が起こる。単細胞ともいうが、物事の理解が浅いのだ。
この様なたった一つだけの考えしかないのはどう考えてもおかしい。これでは結局何がどうなのか全然分からない。そもそも「難しい」とはいったいどういうことなのか?
そういったことにも意味があるはずなのだ。結局難しいとはどういうことなのか?そのことについて考えることが出来るはずなのだ。
この場合一つの意味でしか物事を理解できていないということになるのだ。物事には複数の意味があるのだ。人間の言動にも行為にも複数の同期や意味が存在するのだ。
そのことを分かってない人間がおおいが、物事には複数の意味がある。

今回の例でも分かるように、複数の意味があるのだ。そもそも「頭が悪い」とか「頭がいい」とかでもそれ自体がどういった意味なのだろう?
結局それ自体の意味がよく分からない。何がどう違うのだろう? 記憶力がいいとか悪いとか、情報処理速度が遅いとか早いとか、要するに頭の回転が速いとか遅いとか?
そんなことだろうか?そしてそういった能力が高いと「頭がいい」と判断できるのだろうか? そして本当に「知性」とはそれだけだろうか?そういったことがよく分からないし
完全な定義もないはずだ。これが「頭のよさの定義である」なんてものをみたことあるだろうか?自分は今までの人生でまったく見たことがないし、しらない。
結局そんなものないのだ。ある程度の定義はあるだろうが、完全な定義なんてものは存在しないのだ。
また、記憶力が高く、頭の回転が速かったとしたらそれだけで、「頭がいい」と判断できるのだろうか?それもよく分からない。勉強が出来たらそれだけで頭がいいと判断できるだろうか?
それも分からない。だったら性格や人格はどうだろうか?そういったことは知性とは関係ないのだろうか? そういったことまで考えると、結局わからない。
諦める事とは少し話がそれたが、知性について分からないことが多いのだ。また、思考の範囲もあるのだが、間違った思考が正しいと思うことも間違っているのだ。
諦める事が正しいと思う事のように。間違ったことが正しいと思うことも間違っている。

タグ:思考 定義
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狭い思考 ~だから~3 [狭い思考]

狭い思考 ~だから~2

正しくもない先入観や思考傾向を人間は他人に教えてしまうのだ。
「学校にさえ行けば人生が保証されるから」「勉強さえしたらうまくいくから」
この様な事だ。

こういった思考を押し付けてしまうのだ。
先入観と言うのは一例でしかないのだ。 学校に行けば人生が保証される場合もある、
同様に勉強さえしたらうまくいく場合もある。しかし、絶対は存在しないのだ。物事は基本相対的なのだ。
そのこと誰も理解していないのだ。 それに、正しいかどうかも分からないことを教えてはいけない。
当然押し付けてもいけない。人間は「自分が正しい」と思った事を押し付けてしまうのだ。
人間の思考なんてのは基本的にプログラムのようなものである。確実に正しい事を理解できている人間なんかほとんどいないのだ。

それでも正しいと思ったことを押し付けてしまう。何か一つの根拠があればその一つだけの根拠で自分が正しいと思ってしまうのだ。
人間の思考とは。自分は、勉強をしたから人生を成功させることが出来たとしたら、
全員が同じことをしたらうまくいくと思ってしまう場合がある。 そしてその考えが先入観や固定観念になっていく場合がある。
こういった場合、一つだけの根拠を真理として自分の思考に定着させてしまう事がある。
しかしそれは間違っているのだ。

自分一人だけの一例は全員の人間には当てはまらないはずだ。しかし思考範囲の狭い人間の場合は、その一例だけが「確実に正しい事」と
思ってしまうのだ。そして押し付けてしまう。
それは間違っているのだ。 この場合大きく分けて二つほどの間違いがある。
一つは、正しいと思っていることが先入観であること。そしてもう一つは、いくら正しい事であっても押し付けてはいけないという事である。

確かに、正しい事であったら教えるべきだろう。しかし、押し付けるのはよくない。
例えば、「夢をかなえろ」と言ったとする。夢をかなえることはいい事である。しかし、理由も説明せずにその一つの行動だけを押し付けるのは良くない。
夢をかなえるということは、並大抵のことではない。相当難しいことである。
不可能に近いほど難しいと言ってもいい。 そんなことを説明もなく押し付けるのはよくない。
大概の人間は、人にものを教えるときに飛躍した言い方をしてしまう。理由を説明しないのだ。それは間違っている。
理屈抜きで結果のみを教えることは、教えたことになってない。

それは教えたことになってないのだ。「夢をかなえろ」などと言われてもなぜ、何のために?それが本当に意味のある事か?
それで本当に幸せな人生が送れるか?等を説明してから言うべきなのだ。「仕事をしろ」に対してもそうだ、
確実に意味があることを説明して、その上で結論を述べるべきなのだが、誰もそれが出来ていないのだ。
そして「説明しない」と言うより「説明できない」と言った方が正しい。説明することが出来ないから説明しない場合の方が多い。

なぜなら先入観であるから。空っぽの思考だから。説明のしようがないのだ。論理的思考ではないからだ。中身のない思考なんか説明のしようがない。
だから説明しようにもできないのだ。
簡単に例えると、「仕事をしないといけない」そしてその理由は?
「仕事をしないと死ぬから」ではなぜ自分が生きないといけないか?本当に生きる価値があるのか?
となると結局「分からない」とか「死にたくないから」そんなことぐらいしか答えが出ないだろう。結局「自分が生きないといけないか?本当に生きる価値があるのか?」
この答えが分かる人間なんか誰もいないしそれに考えることも誰も出来ていないのだ。

自分が生きる意味とかそんな事もさえも誰も考えていないし分かっていないのだ。論理的思考ではなく空っぽの思考なんか教えようがない。
ただ一つの事を説明するだけなんか教えたことにならない。教えるには過程を説明するはずがある。結果のみの説明なんか教えたことにはならないのだ。
そう思うはずだ。ただ「がんばれ」とか「生きろ」とかそんな一つだけの事を教えられたところで、それだけでは何をしていいかわからないだろう。
そういう事だ。一つだけの結論の説明だけの説明なんか教えたことにならないのだ。こういった説明を空っぽの説明と言うのだ。
そんな空っぽの中身のない説明なんかほとんど意味をなさない。

先入観とはただの思い込みであり空っぽの思考なのだ。正に空っぽだなのだ。もしかしたらこの世に仕事をしている人間なんか誰もいないかもしれない。
すべての人間が、仕事をしているのではなくて仕事に使われてるだけなのかもしれない。仕事をしているのではなくて、しごとに使われているのだ。
その意味を理解できずに仕事している人間がほとんどだからだ。簡単に例えるなら学校の生徒も教師である。学校で勉強をしている生徒と勉強を教えている
教師だが、その両方ともが「今自分がやっていることが本当に意味のある事かどうか?」そういったことが分からずにしているのが、いい例えといえよう。
勉強が将来役に立つのか?そして教えてる側の教師もそういったことが分からないまま教えている。その時点で教師は仕事に使われている。

意味を理解できずにやっているのだ。生徒に勉強を教えることや意味のあるかどうかも分からない規則を守れと言う事が、生徒の役に立つかどうか分からないまま
やっているのだ。仕事をしないと自分が生きることが出来ないから....。 しかし、それはおかしい。このプロセスを説明するとこうなる。

自分が生きるために、正しいかどうかも分からない事をやっている。それも楽しくないし意味があるかどうかも分からないことを仕事であるからと言う理由で
やってるだけ....

これはどう考えても「自分が仕事をしている」と言うより「自分が仕事に使われてるだけ」なのだ。それに結構こんな言葉を使う人間が多い。
「仕事であるから仕方なくやってるだけ」という人間が沢山いる。「しごとであるから~」「しごとであるから~」これは非常によく聞く言葉だ。
これは、自分が思うにまったく逆である。 まっ~~たく逆だと思うのだ。どう考えても.....。
違うのだ。 しごとであるから最も自分がやりたいことをすべきだと思うのだ。この仕事だからやりたくない事でもやらないといけないというのは、マイナスの思考なのだ。
どう考えても仕事であるから自分が一番やりたいことをすべきなのだ。

一番大事な事であるから、自分が本当にやりたいことをすべきだと思うのだ。ではなぜ、どんな人間もこんな逆の思考をもってるのだろう?それは
こうなる。
自分の思った通りの仕事なんか選べないしできないから
なぜか? それは、能力がない、或いは足りないから.... 
おそらくこうなる。

それは低能力な人間のいいわけである。そんな理論は弱者の理論なのだ。あきらめる人間の理論なのだ。物事においてあきらめること自体がそもそもの間違いなのだ。
諦める、マイナスの思考を元に作られた理論なのだ。仕方なくやりたくない仕事をするというのは...。それは間違っている。
能力さえ高めて腕を磨けば、誰でもかどうかは分からないが、基本的にどんなことでもできるようになるのだ。 どんな人間もすぐに「無理だ」と判断したがるが、
そもそも「不可能の定義と基準」とはなんだろう? その時点で分からないが....。いったい何だろう? なぜ無理と言えるのだろう?なぜ判断できるんだろう?

おそらく先入観で判断するんだろう。その時点で人間は先入観や思考傾向の奴隷なのだ。分からないことを勝手に判断しているのだ。
判断の基準も定義も正しいことかどうかなんかなど、なぜ分かるのだろう? 大概の人間は、2,3度何か物事を試して無理だった場合、「これは自分には無理だ」と判断しがち
だが、本当にその判断が正しいのだろうか?その定義が正しいのだろうか?そんなことは分からない。勝手な判断だ。


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狭い思考 ~だから~2 [狭い思考]


狭い思考 ~だから~2

先入観思考傾向

まず人間は先入観の塊である、それもきづいていないのだ
自分が先入観の塊だということも気づいてないのだ。
人間は誰しも自分が生きないといけないと思ってるはずだ。また、
仕事をしないといけないとも思っているだろう。

しかし、本当に自分が生きるべき人間であるか?と言う事や、
本当に今自分がやてる仕事が意味のあることかどうか?などと言うことは
分かっている人間は少ない。

なぜなら、そこまで考えていないからだ。それに考えていないということはその意味も分かっていないということになる。
そして、ほとんどの人間は自分がどんな人間かもわからずに生きているのだ。
人間にはいろんな人間がいる。正しい人間、間違って人間、悪い人間、良い人間、など
いろんな種類がある。当然生きる価値があるものもあれば、無いものもいるかもしれない。
そういったことさえわからずに生きているのだ。
そして、結局自分がどんな人間かもわからずに。間違った人間でも悪い人間でも、そういった人間でも
「自分が絶対生きないといけない」と思っているのだ。
本当に生きる価値があるかどうかもわからずに....。

本当に自分が生きるべき価値があるかどうか?ということが全然分からずに生きているのだ。
ただ、単に「そうにちがいない」と思っているだけの事が先入観で人間はその塊、先入観の塊なのだ。

仕事に関しても同様に同じだろう。
それが本当に自分がやるべき仕事であるか?とか
本当に正しいことなのか?意味のある事のなのか?とかそんなことを誰も分からずに
仕事をしている。

この様に人間とは先入観や思考傾向の塊なのだ。
全然だれも考えることが出来出来てないのだ。

少し考えれば誰もが思うはずだ。日本のまあ、アメリカでもそうだが、
ほとんど全員の人間は学校にいてるはずだ、そしてそこで勉強してたことが誰しもあるだろう。
しかし、教師は勉強は教えるが、「なぜ勉強が必要か?」とか「なぜ勉強をしないといけないか?」と言うことをだれも教えないのだ。
勉強を教えるだけなのだ。ただそれだけを。
勉強は教えるが、なぜ勉強をしないといけないか?を誰も教えないのだ。

その飛躍した行動からして、人間は先入観の塊だということが、よくわかる。
ただ、そうしろ。 ただ、やれ。 
とかそんな飛躍した指示をしているのだ。そして問題は飛躍しているという事自体が分かっていないという事なのだ。
それが問題なのだ。
先入観とは空っぽの意識なのだ。 論理的思考ではないのだ。
そんな空っぽの考えを押し付けてしまっているのだ。この場合。

思考傾向とか先入観って言うのは、中身のない空っぽの考えで、論理的思考ではないのだ。
しかしそれでも、人間はその先入観こそが正しいとおもっている。それが真理だと思ってしまっているのだ。
実際そんなはずはない。
「勉強をしなければならない」
「仕事をしなければならない」
「生きなければならない」とかそういった先入観は間違ってるわけではないのだが、
そういった考えは、中身を分かっていないと意味がない。

やはり先入観だけを妄信することは間違っている。「それだけをやっていればいい」と
思ってしまうからなのだ。
「勉強をしなければならない」
そう考える人間は
「勉強だけやってればいいあとはどうでもいい」と考えてしまい

「仕事をしなければならない」
そう考えてる人間は
「自分が仕事だけやっていればいい」とそう考えてしまうからだ。

そういった偏った思考は間違っている。先入観とは偏った思考で偏見でもある。
偏った思考や狭い思考は間違っていることは明白だ。

そのような思考だと、自分の事しか考えていない事になる。
ただ、自分が仕事をやっていたらいい。周りの人間がどんな状態でも
「自分が自分の仕事だけをやっていたらいい」とかそんな風に考えてしまうのだ。
「それだけやっていたらいい」とそんな風に。
「それだけやっていたら正解」とそう考えてしまうのだ。
物事には状況もある。それに自分の周りに困っている人間がいたとして、それでも自分の事だけやってる
と言うのは、確実におかしい。間違っている。
しかし分からない人間は何もわからない。狭い思考の間違った人間は、なにか一つの事しか分からない。だから
「仕事さえやってればいい」つまり「自分の事だけやってたらいい」とそう考えてしまうのだ。
「~さえやっていれば」とそんな風に考えてしまうのだ。
この思考は狭いし自分中心に偏ってる。
それに、結局なぜ仕事だけやったらいいか?と言う事が分かっているのかどうか分からない。
世間的には、仕事=社会貢献 
とかそんな風にとらえてるかもしれない。また「仕事をしていたらそれだけで社会の役に立ってる」とか
そんな風に考えるかもしれないが、しかし、基本的に仕事と言うのは自分を生かすためにするものなのだ。
つまり仕事をするということは、自分を生かすことなのだ。したがって、自分のための行為なのだ。

大して人の役にも社会の役にも立たない場合もあるし、まったくと言っていいほどたたない場合もある。
それでも一つだけの固定観念にとらわれてる人間は「仕事=社会貢献」とか勝手にそれだけの事を思っているのだ。
こんな狭い思考を持つことはとても危険な事なのだ。間違った思考を持つことはものすごく危険な事なのだ。

ここで新しい事に気付いた。間違った思考を持つことは危険な事である。と言うことに。
正にそうだ。間違った先入観つまり思考を持つことは、非常に危険な事である。人間の人生は思考が作り上げるものだ。
その思考が間違っているということは、非常に危険な事であったのだ。そして先入観や固定観念にとらわれた思考というのは
当然正しい思考ではない。そういった思考は危険な思考だ。

このことにどんな人間も気づかなければならない。

そして、さらにマズイのは正しくもない先入観や思考傾向を人に教えてしまうことだ。

タグ:先入観
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狭い思考 ~だから~

間違った人間なんかどこにでもいるし、そういった人間の何が間違っているか?と言うと
思考が間違っているのだ。
思考が間違うと、性格も人格も何から何まで追従しておかしくなる。と言うより、逆かもしれない
性格や人格がおかしいと思考も追従しておかしくなるのかもしれない。
そして、その間違った思考なのだが、一体何が間違っているか?と言うと、
間違いに関してはいろいろあるけど、思考が狭いのだ。 極端な考えしかできないし、思考自体が浅いのだ。

そういった思考が間違った思考でもあるし、ダメな思考なのだ。 前も少し説明したが、「~こそがすべて」
みたいなこの思考はよくない。一見は正しいように思うかもしれない。

「規則こそがすべて」「規則は絶対守らないといけない」とかそういった考えは正しいように思うかもしれない。
しかし、今までも言ったけど、この考えだと間違った規則や無理な事にも従わないといけなくなるのだ。

物事には状況ってものがある。「熱があっても仕事をしろ学校に行け」とか、そんなことは無理だ。
しかし、「規則だけがすべての」の思考の人間の場合は、そんな無理な状態でも無理なことをやらせるのだ。

この間違った思考の人間は、そもそも、思考範囲が狭いのだ。また、間違った使命感や義務感が強いのだ。


ケガしててもやれとか
風邪ひいててもやれとかそんな無理なことをいう人間は思考範囲が狭く、変な使命感や義務感を持っているの。規則も大事だが、
物事には状況がある。 状況に応じては規則でも守れないこともある。
「熱があっても仕事をしろ学校に行け」これは無理だ。どう考えても無理だ。
しかし、固定観念の強すぎる人間でさっきも言ったけど変な使命感や義務感を持っている人間ってのは
どんな状況でも、死んでも規則を守れみたいな考えを持っているのだ。 

毎日イジメられてるとか 不眠症になったとか 嫌いな人間だらけとか まったく友達ができないとか 理由もなくほかの人間から嫌われるとか
そういった理由があったとしても、それでも、「学校とか仕事に行け」と普通は言えるだろうか?
そんなのは無理だ。 どう考えても無理なのだ。 できるはずがないのだ。

しかし、さっきいった「死んでも規則を守らないといけない」このような思考の人間は、無理なことをやらそうとする。
この軍隊のような思考を持った人間は....。 もはや規則が神の命令のように間違ってとらえてしまってるのだ。
「しんでも~をしないといけない」とこのようにとらえてしまってるのだ。 しかし、よく考えるとその規則自体が、
本当に正しい事なのかどうかなんか誰にもわからないのだ。規則と真理はまた別なのだ。
それが誰も分かってない。
(規則=真理)この様にとらえてしまっている。規則と真理は別なのだ。 ただ、人間がつくっただけの規則は、真理とは違うのだ。
軍隊のような思考の人間は、正しい人間のように思うかもしれないが、私が思うに、そういった人間は人間と言うより
機械に近い。プログラムで動いてしまっている。プログラムで。

それが正しいか正しくないか?とかそんな事は無視で、『規則だから』といったそれだけの絶対条件が脳の神経回路を作ってしまっている。
当然この神経回路は、狭い。いろんなことを分かっていると思ってのるのかもしれないが、結局、一つの事しかわかっていないのだ。
一つだけのプログラムに従って生きていることになる。

「規則だけがすべて」といった、たった一つだけのプログラムにしたがって。ものすごく狭い思考なのだ。
説明しなくても分かるだろうが、思考が狭すぎる。
これは状況を考える事が出来ない人間の思考なのだ。 規模にもよるが、この思考だと、最悪、上の人間から死ねと言われたら死ぬだろう。
もう、それが神の意見のようにとらえてしまうため、なんでもいう事を聞くだろう。

しかし、それはおかしい。 どう考えてもおかしいはずだ。
しかしそんな間違った思考は人間ずっと昔から変わっていないのだ。大昔の時代から人間の思考は変わっていない。
戦国時代や、江戸時代といった時代から、人間は上の人間の命令にどんなことでも従っていた。
そういった時代なら殿様か大名か知らないけど一番上の人間の命令になんでも従って人も殺していた時代だった、
そんな時代から人間のマインドは大して変わっていない。

確かにその頃よりは規則や経済はまったく変わっているかもしれないけど、人間の思考は大して変わっていない。
結局今の時代でも人間は変わったとはいえ、上の人間の作った規則に従っている。

そうは思わないか?
 
確かに昔よりは規則も変わって良くなっているが、しかしそれでも根拠のない意味があるかどうかも分からない規則に従っている。
どんな人間も。

基本どんな人間も意味や重要性を考えないのだ。人間は。規則、決まりだけがすべてと思ってしまうのだ。
簡単な例だが、学校のクラス替えについてなのだが、あれはなぜ、絶対教師が勝手に決めるのだろう?
これがよく分からない。また、規則もなぜ勝手に教師が決めるのだろうか?これも分からない。しかし、それでもみんな
何もわからずに従っている。
もっと単純な事を言うと、みんな学生は頑張って勉強をしている。これも本当に自分にとって意味があるのかも分からないことなのに。

なぜ、その規則に従う必要があるのか? その規則が本当に正しいか?根拠があるのか? 守る価値があるのか?
そういったことを考えずに規則や規律に従っているのだ。どんな人間も。
それに、いま生きてる人間のほぼすべては、法律に従っているが、しかしその法律が本当に正しか?まで考えて従っている人間は
誰もいないだろう。

だから誰もそこまで考えないから、結果的に間違った規則にも従ってしまうのだ。そのプロセスを誰も理解できていない。



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学校教育の間違い

学校の教育とかどう考えても間違ってしあまりに非合理的すぎ。
今回はその間違いや欠点短所についての説明でござる。
まず、「学校は知識を詰め込むだけの場所」と考えてるだろうが、それも無理

知識さえ詰め込まれない。
知識どころか何も得ることが出来ない上に悪いことだらけ。
イジメや差別、誹謗中傷、暴力、等々www
学校には悪いことがたくさん沢山!!!
ましてや、知識を詰め込むことが出来たとして、それでどうなる?
「ただ知識を詰め込んだだけの人間が本当に偉い人間になるか?」と言うと
なる訳がないのだ……

そんなんで立派な人間になる訳がないし、何より
「えらい人間の定義」「賢い人間の定義」など誰も知らない。
そんなことさえ知らずに、賢い人間を作ろうとか思う時点で間違っているのだ。

まあそれに学校とは偉い人間を作るための場所ではない、
最終的に学校が教えていることは一つだけなのだ。ただ、社会に順応するための人間を
作り上げるためだけの場所なのだ。

「規則に従え」それだけ学校が教えてることは本当にこの一つだけである。正しく。
なにせ、学校の規則は、まあ学校に限らず意味のない事もおおいし、根拠がない事ばっかりなのだ。
スカートの長さシャツを入れろとか靴下を折るとか、そんな意味のあるか無いかもわからない規則に
「絶対従え」と言っている。

つまり人間の思考というのは、「規則こそすべて」なのだ。
社会的に見て、しっかりしているにとと思われる人ほど、
「規則を完璧に守ってる人間」なのだ。 しかしこの考え「規則こそすべて」といった考え
正しいようで間違っている。なぜなら、その思考だと、上の人間から死ねと言われたら、潔くしたがってしまう
かんがえだからだ。
なぜなら、それが規則だから・・・・・ 正しい正しくないにかかわらず、規則がすべてといった考えだと、
どんな規則も命令も従う人間になってしまうのだ。

「そんな命令は上の人間はしない」と思うかもしれないが、果たしてそうだろうか?
本当にそうだろうか?これだけ平和になった日本でも政治家は戦争を起こしたがっている人間がおおい。
戦争が起こったとしたら、もはや、「国民全員政治家のために死になさいよ」と言っているようなものだ。

この様に上の人間でも「死になさい」という命令はする。
それに、直接、「死になさい」と言わなくても、そもそも強制や強要をすること自体が、間違っているし、
場合によっては人を殺す場合もある。

学校に行きたくないけど、教師は絶対「行きたくない」と言ってる生徒の意見など聞きもせずに、
登校を強制する。それはつまり「死んでもいけ」と言ってるようなものだ。
「死んでもやれ」と言ってるのと変わりがない。正にそうなのだ。この強制や強要は、場合によっては人を殺すのだ。
それが誰も分かっていない真理だ。 

「絶対何かに従え」とか「絶対こうしろ」と言う考えは、人を殺してしまう場合がある。

しかも人間はそのプログラムに従って生きている。その「絶対~」と言う思考は誰もが持っている。
それもまじめな人間ほどその思考が強いのだ。 まじめな人間ほど、規則に従わないといけないと考える。
「先生のいう事はしっかり聞かないといけない」と言うまさにこの原理だ。
まじめな人間ほど上の人間の意見をしっかりと聞く。それは上の人間の意見が正しければ良い事なのだが。
間違った人間であれば困るのは言うまでもない。
話がそれたが、この上の人間の意見は従わないといけないというこの原理。誰でも持っているはずだ。
そして、そこに問題があり、上の人間が本当に正しい人間かどうか?を誰も考えないのだ。

常に人間の思考にあるのは、プログラムのような考えだけ。「規則に従わないといけない」
「命令は絶対である」このような思考だけ。間違ってようが正しかろうが、「それが現状の規則だから」といった理由で
決まりにだけ従うのだ。

基本人間は規則であればどんな事でも従うのだ。人間は先入観の塊なのだ。現在でも不完全だが、昔のかなり不完全な
法律や規律にもその時代の人間は従っていたのだ。

学校の規則も今よりもっと間違った規則が多かったし、昔は冤罪とか誤認逮捕も多かった。問題だらけの規則だった。
けどそれでも昔は従ってた。その時代の人間は。

学校の規則に関して髪型まで決まっていた、男子は坊主とか女子は知らないがそんな、髪型まで決まっていたのだ。しかし
その時代の人間はそれが当たり前で規則だからと思って何も違和感を持たずに、従っていたのだ。
冤罪事件も多かったし刑事訴訟法が改善されてなかったから取り調べを受けた後に死ぬ人間もいたそうだ。
しかしそれが当たり前だから仕方がない。昔の人間はそう考えていた。 このように、人間のマインドってのは、いつの時代も変わらない
ずっと何も変わらないのだ。

しかし逆に、どんな規則でも従うのであれば、確実に正しい規則を作ることが出来たとすればその規則に従う事も出来るのだ。
人間は不完全な規則にも従ってしまうが、完全な規則にも従うことが当然できるのだ。

この様に考えてみると、人間はどうも「正しい事」を理解することが出来ていないようだ。人間のマインドは
「規則=正しい事」と考えてしまうみたいだ。 正にこうなっている。 しかし「規則」と「真理」は別なのだ。
規則は現状の決まりであって真理とは違うのだ。

人間はそれがよく分かっていない。規則と真理を混ぜて考えてしまっているのだ。それは本来別々に考えるべき事なのだ。



タグ:学校教育
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いずれは、

いずれはかりあげ店長とか雌雄を決する!
お互い最強の敵としてそして最強の友として。

そしてカリアゲ店長は、すぐに昔のことを忘れてしまう。

はあ、なんか眠い。



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